結婚式を明日に控えた夜。
午後11時47分。
スマートフォンの画面に、懐かしい名前が浮かんだ。
「健太」
もう3年も連絡を取っていない人だった。
私はしばらく、その名前を見つめていた。
明日、私は結婚する。
相手は、誠実で優しい人だ。
私が疲れて帰ってきた日には、何も言わずに夕飯を作ってくれる。
仕事で落ち込んだ日には、無理に励ましたりせず、ただ隣にいてくれる。
この人となら、きっと穏やかな家庭を築いていける。
そう思って結婚を決めた。
それなのに。
たった一つの名前を見ただけで、胸の奥がこんなにも騒がしくなるなんて。
電話は一度切れた。
そして、もう一度鳴った。
私は迷った末に、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
少しの沈黙。
それから、懐かしい声が聞こえた。
「久しぶり」
その声を聞いた瞬間、忘れたはずの時間が一気によみがえった。
・・・健太とは、27歳のときに出会った。
友人の紹介だった。
初めて会った日、彼は待ち合わせに15分遅れてきた。
「ごめん、道を間違えた」
そう言って笑った顔が、なぜか憎めなかった。
健太は、決して完璧な人ではなかった。
約束を忘れることもあったし、連絡が遅いこともあった。
仕事が忙しくなると、私のことを後回しにした。
何度も喧嘩をした。
何度も泣いた。
それでも、好きだった。
休日の朝、二人で近所のパン屋に行ったこと。
スーパーで安いワインを買って、映画を見ながら飲んだこと。
旅行先で道に迷い、二人で大笑いしたこと。
何でもない日常が、私にとっては特別だった。
あの頃の私は、本気で思っていた。
この人と結婚するんだろうな。
でも、30歳になった頃から、少しずつ気持ちがすれ違い始めた。
私は結婚したかった。
健太は、まだ考えられないと言った。
「あと少し待ってほしい」
その言葉を、何度聞いただろう。
一年待った。
もう一年待った。
友人たちは次々と結婚し、子どもが生まれていった。
焦りたくない。
比べたくない。
そう思いながらも、私はいつしか、彼と過ごす時間よりも、彼の返事を待つ時間のほうが長くなっていた。
ある冬の夜。
私は思い切って聞いた。
「健太は、私と結婚したいと思ってる?」
彼は黙っていた。
長い沈黙だった。
そして、小さな声で言った。
「好きだけど、今は約束できない」
その瞬間、何かが終わった気がした。
私は泣かなかった。
ただ、
「そっか」
と答えた。
それが、二人の最後の夜になった。
・・・「明日、結婚するんだって?」
電話の向こうで健太が言った。
「……うん」
「おめでとう」
私は何と答えればいいのかわからなかった。
「ありがとう」
ようやく、それだけ言った。
「幸せ?」
突然の質問だった。
私は窓の外を見た。
静かな住宅街。
遠くで車の走る音が聞こえる。
「幸せだよ」
そう答えた。
嘘ではなかった。
本当に幸せだった。
「そっか。よかった」
健太は、少し笑ったようだった。
それから、しばらく沈黙が続いた。
昔の私なら、その沈黙さえ心地よかった。
何も話さなくても、つながっている気がしたから。
でも今は違う。
電話の向こうにいるのは、もう私の知らない時間を生きている人だった。
「何で電話してきたの?」
私が聞くと、健太は小さく息を吐いた。
「どうしても、言っておきたいことがあって」
心臓が、一度大きく鳴った。
「何?」
「俺さ……」
彼はそこで言葉を止めた。
そして、ゆっくり続けた。
「お前と別れたこと、ずっと後悔してた」
私は目を閉じた。
聞きたかった言葉だった。
3年前、何度も夢に見た言葉だった。
あのとき、この言葉を聞けていたら。
どんなに救われただろう。
「仕事が落ち着いたら結婚しようと思ってた。でも、ちゃんと言わなかった。お前がずっと待ってくれるって、勝手に思ってた」
涙が一粒、頬を伝った。
「別れてから、何度も連絡しようとした」
私は黙って聞いていた。
「でも、今さら何を言っても遅いってわかってた」
そう。
遅かった。
あの頃の私は、毎日待っていた。
彼からの電話を。
彼からのメッセージを。
「やっぱりお前がいい」
その一言を。
でも、電話は鳴らなかった。
そして私は、少しずつ彼のいない生活に慣れていった。
泣かずに眠れる夜が増えた。
一人で映画を見られるようになった。
思い出の店の前を通っても、立ち止まらなくなった。
忘れたのではない。
彼がいなくても、生きていける自分になったのだ。
・・・「もし、今から会いたいって言ったら?」
健太が言った。
私は息を止めた。
「……どういう意味?」
「最後に、一度だけ会えないかな」
時計を見る。
午前0時を回っていた。
もう、結婚式当日だった。
私は明日、白いドレスを着る。
大勢の人に祝福され、夫になる人と新しい人生を歩き始める。
その前に、かつて一番愛した人が、会いたいと言っている。
3年前なら、迷わず飛び出していただろう。
夜中でも、雨が降っていても。
彼に会えるなら、どこへでも行った。
でも。
私は静かに答えた。
「会わない」
電話の向こうが静かになった。
「……そっか」
「うん」
「ごめんな、こんな日に」
私は首を横に振った。
彼には見えないのに。
「健太」
「ん?」
「私ね、ずっと待ってたんだよ」
声が少し震えた。
「結婚しようって言ってくれるのを、ずっと待ってた」
彼は何も言わなかった。
「でもね、ある日気づいたの」
私は涙を拭った。
「私が欲しかったのは、結婚っていう言葉だけじゃなかった」
「……うん」
「私との未来を、一緒に考えてくれる人が欲しかったんだと思う」
健太は黙っていた。
「あなたのこと、本当に好きだった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に残っていた何かが、静かにほどけていく気がした。
「でも、今は別の人を大切にしたい」
健太が、小さく言った。
「いい人なんだな」
「うん。すごく」
「そっか」
少し間があった。
「幸せになれよ」
私は答えた。
「健太もね」
それが、最後の会話になった。
・・・電話を切ったあと、私はしばらく動けなかった。
涙が止まらなかった。
悲しいのか。
懐かしいのか。
自分でもよくわからなかった。
ただ、一つだけわかったことがある。
好きだった人を忘れることと、その人との人生を終えることは、同じではない。
健太と過ごした日々は、間違いなく幸せだった。
あの恋がなければ、今の私はいない。
でも、あの頃に戻りたいわけではなかった。
私はベッドの上に置いていたスマートフォンを手に取った。
明日、夫になる人からメッセージが届いていた。
「準備、大丈夫?」
「明日、緊張するね」
「でも、すごく楽しみ」
そして最後に、
「これからもよろしくね」
と書いてあった。
私は、その何でもない言葉を何度も読んだ。
健太は、私を夢中にさせる人だった。
一緒にいると、世界が輝いて見えた。
嬉しい日も、苦しい日も、すべてが大きな出来事だった。
一方、明日夫になる人は、私を安心させてくれる人だった。
特別なことがなくても、一緒にご飯を食べるだけで楽しかった。
沈黙が怖くなかった。
無理に笑わなくてもよかった。
未来の話をするとき、いつも自然に「二人で」と言ってくれた。
どちらの愛が本物だったのか。
そんなことを比べる必要は、もうなかった。
どちらも、私にとって本物だったのだから。
ただ、人生を共に歩く人として、私が選んだのは彼だった。
私はメッセージを返した。
「こちらこそ、よろしくね」
少し考えてから、もう一文付け加えた。
「明日、会えるのが楽しみ」
すぐに既読がついた。
「俺も。おやすみ」
私は笑った。
不思議だった。
たったそれだけのやり取りで、心がこんなにも穏やかになるなんて。
・・・翌朝。
カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込んでいた。
鏡の前で、私はウェディングドレスに袖を通した。
母が後ろからベールを整えてくれた。
「きれいね」
そう言って、母は少し泣いた。
私も笑いながら泣いた。
式場の扉が開く直前。
ふと、昨夜の電話を思い出した。
あの電話が、もし3年前にかかってきていたら。
私はきっと、健太のもとへ走っていただろう。
そして、まったく違う人生を歩んでいたかもしれない。
でも、それはもう、選ばなかった未来だ。
扉の向こうには、私を待っている人がいる。
私は深く息を吸った。
そして、一歩踏み出した。
バージンロードの先で、彼が少し照れくさそうに笑っていた。
その顔を見た瞬間、私も自然に笑った。
昨夜流した涙の理由を、いつか忘れてしまう日が来るかもしれない。
でも、きっとそれでいい。
すべての恋が、結婚につながるわけではない。
すべての別れが、間違いだったわけでもない。
大切なのは、誰を一番好きだったかではなく、これからの人生を、誰と生きていきたいか。
私は彼の隣に立った。
差し出された手を、そっと握った。
温かかった。
そして、心の中で小さくつぶやいた。
「さようなら、健太」
それは悲しい別れの言葉ではなかった。
かつて本気で愛した人への、最後のありがとうだった。
そして私は、目の前の人を見つめた。
「これから、よろしくね」
彼は笑って答えた。
「こちらこそ」
その瞬間、私の新しい人生が始まった。
・・・物語のあとに
人生には、忘れられない恋があります。
もし、あのとき違う選択をしていたら。
もし、もう少し待っていたら。
そんなふうに考える夜もあるでしょう。
でも、過去の恋が美しいからといって、今の幸せが色あせるわけではありません。
忘れられない人がいることと、今、目の前にいる人を心から愛することは、決して矛盾しないのだと思います。
あなたには、もう一度だけ声を聞きたい人がいますか?
そして、その人から今夜電話がかかってきたら。あなたは、出ますか?
土曜の夜に読む物語。
今夜も、あなたの心に静かな余韻が残りますように。