金曜日の夜、11時58分。
私はキッチンの小さなテーブルで、時計の数字が変わるのを待っていた。
あと2分で、私は40歳になる。
目の前には、帰り道のケーキ屋で買ったショートケーキが一切れ。
「お誕生日のプレートはおつけしますか?」
店員さんにそう聞かれて、私は少しだけ迷ってから、首を横に振った。
「いえ、大丈夫です」
自分の名前が書かれたチョコレートのプレートを、自分で食べる姿を想像したら、なんだか急に恥ずかしくなったのだ。
時計が、0時00分に変わった。
誰もいない部屋で、私は小さく言った。
「おめでとう、私」
声に出してみると、思っていたより静かだった。
・・・スマートフォンが、短く震えた。
母からだった。
「お誕生日おめでとう。体に気をつけてね。お父さんもよろしくって」
いつもと同じ文面。
去年も、その前の年も、たしか同じだった。
少しして、同期の真理子からスタンプが届いた。
ケーキを持ったうさぎが、ぴょんぴょん跳ねている。
「40歳おめでと!今度ランチ行こうね」
そして、大学時代の友人の沙也からは、写真付きのメッセージ。
「おめでとう!うちの子たちからも」
画用紙に、クレヨンで「おめでとう」と書かれていた。
小さな手が二つ、写真の端に写っている。
私は全部に「ありがとう」と返した。
うれしかった。
本当に、うれしかった。
それなのに、画面を閉じたあと、部屋の静けさが少しだけ大きくなった気がした。
・・・30歳の誕生日のことを、ふと思い出した。
あの夜は、友人たちが居酒屋で祝ってくれた。
誰かが言った。
「40歳になったら、みんなどうなってるんだろうね」
「さすがに結婚してるでしょ」
「子ども、何人いるかな」
笑いながら、私もうなずいていた。
40歳なんて、ずっと先のことだと思っていた。
その帰り道、少し酔った勢いで、私はスマートフォンのメモに手紙を書いた。
「40歳の私へ」
10年後に読もう、と決めて。
それから、本当に一度も開かなかった。
・・・メモのアプリを開いて、下へ、下へとスクロールした。
あった。
2016年10月。
「40歳の私へ」
指先が、少しだけ冷たくなった。
40歳の私へ。元気ですか?
結婚していますか?
子どもはいますか?
仕事は続けていますか?
今の私は、正直、ちょっと焦っています。
周りがどんどん結婚して、置いていかれる気がしています。
でも、もし40歳のあなたが一人だったとしても、それでもいいと思う。
そのかわり、ひとつだけお願い。
笑っていてね。
それから、誰かと一緒に笑えていたら、もっといいな。
私は、しばらく画面から目を離せなかった。
・・・この10年を、振り返ってみる。
仕事は続けている。
32歳で今の部署に移って、35歳でチームを任された。
大変なことも多かったけれど、今は、自分の仕事が好きだと言える。
恋愛も、何もなかったわけじゃない。
35歳のときに付き合った人とは、2年続いた。
結婚の話が出たこともあった。
でも、話が具体的になるほど、お互いの「こうしたい」が少しずつずれていった。
どちらが悪いわけでもなかった。
ただ、終わった。
そのあとは、なんとなく恋愛から離れていた。
仕事が忙しかったから。
一人の暮らしが、それなりに快適だったから。
そう言い訳しているうちに、3年が過ぎた。
笑ってはいる。
毎日、ちゃんと笑っている。
でも、誰かと一緒に笑えているかと聞かれたら。
私は、うまく答えられなかった。
・・・ケーキを一口、食べた。
甘かった。
いちごが少し酸っぱくて、ちょうどよかった。
おいしいね、と言いたくなって、言う相手がいないことに気づいた。
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
寂しい、とはっきり思ったのは、何年ぶりだろう。
ずっと、「一人でも大丈夫」と思ってきた。
それは嘘じゃない。
私は一人でも大丈夫だ。
でも、大丈夫であることと、一人でいたいことは、違う。
一人でも生きていける。でも、一人で生きていきたいとは、限らない。
そのことを、40歳になった最初の夜に、私はやっと認めた。
・・・メモのアプリに、新しいページを作った。
「41歳の私へ」
10年後じゃなくて、1年後。
それくらいなら、ちゃんと向き合える気がした。
41歳の私へ。
来年の誕生日は、誰かと一緒にケーキを食べていますか?
もし、まだ一人だったとしても、責めないでね。
そのかわり、この1年で、ひとつだけ約束してほしい。
「いつか」を、やめること。
いつか、いい人がいたら。
いつか、落ち着いたら。
いつか、時間ができたら。
その「いつか」を待っていたら、10年があっという間に過ぎたから。
だから、今年は自分から、一歩だけ動いてみる。
まずは、誰かに話してみる。
「本当は、誰かと一緒に生きていきたい」って。
書き終えて、保存ボタンを押した。
・・・カーテンを少し開けると、街の灯りがまだ点いていた。
金曜日の夜を終えた人たちが、それぞれの部屋に帰っていく時間。
この灯りのどこかにも、同じように一人で誕生日を迎えた人がいるかもしれない。
同じように、「いつか」を待ち続けてきた人がいるかもしれない。
そう思ったら、少しだけ、心強かった。
残りのケーキを、ゆっくり食べた。
お皿を洗って、電気を消した。
40歳の最初の夜は、思っていたより、静かで、やさしかった。
・・・物語のあとに
誕生日の夜は、一年でいちばん、自分のこれまでとこれからを考える夜かもしれません。
たくさんの「おめでとう」をもらっても、ふと、部屋の静けさが大きく感じられることがあります。
それは、今の暮らしが不幸せだからではありません。
一人でも大丈夫になった人ほど、「誰かと一緒に」という気持ちを、そっと後回しにしてしまうのだと思います。
もし今夜、あなたが10年前の自分に手紙を書くとしたら。
あるいは、1年後の自分に手紙を書くとしたら。
あなたは、どんな「いつか」を、やめますか?
土曜の夜に読む物語。
今夜も、あなたの心に静かな余韻が残りますように。