改札を出たところで、手を振って別れた。
振り返ったら、向こうも振り返っていて、
二人で、少しだけ笑った。
「じゃあ、また来週」
自分の声が、思っていたより明るかった。
・・・帰りの電車は、空いていた。
窓に映る自分の顔が、なんだか、ゆるんでいる。
今日、何を話したんだっけ。
好きなパン屋のこと。
子どものころに飼っていた犬のこと。
どちらも朝が弱い、ということ。
たいした話は、していない。
なのに、ずっと笑っていた気がする。
スマートフォンを取り出して、「今日はありがとうございました」と打って、消した。
もう一度打って、また消した。
たった一行なのに、こんなに迷うのは、いつぶりだろう。
・・・結局、家に着いてから送ろう、と決めて、画面を伏せた。
その瞬間、手の中で、スマートフォンが短く震えた。
高野さんからだった。
今日はありがとうございました。パン屋の名前、帰ったら調べます。犬の名前も、今度ちゃんと聞かせてください。
思わず、声が出そうになった。
あわてて口元を押さえる。
向かいの席の人が、ちらりとこちらを見た気がした。
先を越された。
そう思ったら、なぜか、すごくうれしかった。
・・・今朝のことを、思い出す。
鏡の前で、服を三回着替えた。
最後は、いちばん最初に選んだ紺色のワンピースに戻った。
出かける前、玄関で、自分に言い聞かせた。
「期待しないで行こう」
この何年か、ずっとそうしてきた。
期待しなければ、がっかりもしない。
それは、自分を守るための、小さなお守りだった。
でも今日は、そのお守りを、待ち合わせの3分後には、どこかに置いてきてしまった。
高野さんが、緊張した顔で「はじめまして」と言ったあと、
「すみません、さっきから、ずっと噛みそうで」と笑ったから。
・・・最寄りの駅で降りた。
夜の空気が、少し冷たい。
いつもなら、まっすぐ家に帰る道。
今夜は、コンビニに寄って、プリンをひとつ買った。
ちょっといいほうの、瓶に入ったプリン。
誰かに祝ってほしいわけじゃない。
ただ、今日の自分に、何か渡したかった。
袋を揺らしながら歩いていたら、
知らないうちに、鼻歌を歌っていた。
曲名も思い出せない、昔の歌。
・・・家に着いて、コートを脱いで、ソファに座った。
もう一度、高野さんのメッセージを開く。
今度は、迷わずに打てた。
こちらこそ、ありがとうございました。犬の名前は、ちくわです。朝が弱い者同士、来週はお昼からにしませんか。
送信ボタンを押してから、
「ちくわ」はいらなかったかもしれない、と少しだけ思った。
返事は、すぐに来た。
ちくわ、いい名前ですね。賛成です。土曜の11時、パン屋の近くで。
そのあとに、犬が尻尾を振っているスタンプがひとつ。
私は、ひとりの部屋で、声を出して笑った。
・・・鞄から、手帳を出した。
来週の土曜日のところに、小さく書く。
11:00 パン屋
ページを見返すと、そこにあるのは、ほとんどが仕事の予定だった。
会議。締め切り。出張。
その中に、ひとつだけ、色の違う予定ができた。
たった4文字なのに、ページ全体が、少し明るく見えた。
・・・プリンを、ゆっくり食べた。
甘くて、底のカラメルが少しほろ苦かった。
この先どうなるのかは、まだ分からない。
来週会って、やっぱり違うと思うかもしれない。
向こうが、そう思うかもしれない。
それでも、いい。
今夜の私には、次の約束がある。
また会いたいと思える人がいて、
その人も、同じように思ってくれている。
それだけで、夜はこんなに明るいのだと、私は久しぶりに思い出した。
歯を磨いて、電気を消した。
眠る前に、もう一度だけ、手帳の土曜日のところを思い浮かべた。
・・・物語のあとに
「また来週」と言える相手がいる夜は、それだけで、少し明るくなります。
その先がどうなるかは、まだ誰にも分かりません。
うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。
それでも、送る言葉を何度も消して書き直したり、ひとりで鼻歌を歌ったり、手帳に小さく予定を書き込んだり。
そういう夜は、結果とは関係なく、ちゃんと大切な夜なのだと思います。
期待しないことで、自分を守ってきた人ほど、
少しだけ期待してしまった自分に、驚くのかもしれません。
あなたの手帳にも、色の違う予定がひとつ、書き込まれる日が来ますように。
土曜の夜に読む物語。
今夜も、あなたの心に静かな余韻が残りますように。